ごめんねジュビリー

鉄は熱いうちに打て

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「春のめざめ」

 

 

どうもこんにちは。リリカルな成年済オタク・ラニーナです💃ドリライが終わりましたが!わたしは元気です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

山吹六角氷帝、そして青学!超超超激アツビッグドリームでしたね(???)

そして今日(6/12)はアンプラ三浦くんゲスト回初日!

アンプラ鑑賞前に「これだけは」と思っていたのですが見事に次の日を迎える運びとなりました(6/13に加筆しています)。まあいいでしょう。相手にとって不足なし!(???)今から元気に春めざくんのはなしをします。

 

 

 KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「春のめざめ」

 

www.harumeza.jp

 

 親愛なる君を葬る。それは、装われた、けれど全うすべき義務だった。

 

 一人、また一人と、同じ制服に身を包んだ「生徒たち」が客席に座る。彼らは「客席」に同化している。入り口に寄りかかり、佇む者。足早に歩く者。客席で息を潜めていた者。そして、それは穏やかに始まったかのように見えた。しかし、音から、音へ、光は、暗い中点滅する。不穏な音律は解放へと蠢く無垢な者たちと踊る。

皆、「生徒たち」はなにかを畏れている。成長か、抑圧か。はたまた、”そうあるべき”という自身の「機能」、「本能」にか。

少年は”おとな”に準えられたいと望んだのか?それともーーー

 

あらすじ

ドイツ。とあるギムナジウムに通う優等生のメルヒオールは、友人で自分とは対照的に劣等生のモーリッツに「子供の作り方」を教えてやると言う。幼馴染のヴェントラは母親に「赤ちゃんの作り方」を聞くがそのことを母親は「罪だ」とでも言うように教えてはくれない。そんな中、モーリッツは落第を逃れたことに歓喜しながら仲間内で「落第するとわかったら死ぬつもりだった」と言ってみせるが-----

 

 

 原作を読んでから観劇しました。なぜか。要は「THE・気分」なのですが、「せっかく原作があるのだから、自分の中でその世界を構築してから差異を楽しもう」と言うのが一番の理由ですね。悪童日記*1も原作読んでから行きました。

 

観劇と映画鑑賞における自分のスタンスの相違の中で、不思議だなと思うこと。それは、映画は原作ありきの作品に対し「予習せずに行ってワクワクしたい」と思うのに、観劇の場合は「ぜひ予習してから行きたいな」と思うこと。  なんだろ〜なこの違い!

 

そう考えてみた時に、わたしは自分が、ほぼほぼ映画の性質を「点と線」の世界と捉えていることに気がつきました。二次元。

 

舞台は身体と言語の結合から生まれる奥行きがある。それを三次元的だと捉えている確信が自分の中にあるわけではないんですけども。(演劇に二次元的遠近感?を取り込もうとする試みも面白そう)(って思うんですがいかんせんまだ浅学ですね)

でも少なくともそう感じているところはあるかも?ないかも?か〜んわきゅうだいっ!でした。アブストラクトはここまでにして!表題へ。

 

 

装われた義務のこと

この作品を通して。おとなになることは義務なのか・機能なのか。 ぼくには一体全体わからないや、とわたしの中の春めざくんが言います。 春めざくんは、おとなになりたくないわたしの友達です。 けれどもうわたしはおとなになってしまいました。今このエントリは、おとなではないわたしを"装った"わたしが書いています。装うとはどういうことか?もちろん擬制。ふりをすることです。

「ねえ、"ふり"って『そうではないものがあたかもそうであるように見せかけること』じゃなかったっけ?」(CV.ふるたかずき氏)

そう、もちろんわたしはもうこどもではないのでした。最近気づいたのですが、わたしはわたしが思う以上に、ずっとこどもでいたいっぽいです。ヤバイですね(???)ま〜それは置いておいたとしても、わたしはもうこどもではありません。わたしがいくらこどもでいたいと思っても。では、ラストチャプターのメルヒオールは、紳士に連れられて何処に行くのでしょう。ラストチャプター、かの友人との決別を中心に、とりあえずお話しします。

 

白濁のこと

  舞台上で、幾度となく行われたペンキ?塗料?を塗りたくる表現。モラルと白濁の表現だと思った。どちらも、演者の解放へ向かう心と身体の動きに基づいている。

 

葬るというイニシエーション

このエントリの表題の「葬る」は実際にメルヒオールがモーリッツを葬ったという意味ではなく、このラストチャプターが、メルヒオールがメルヒオールの中でただしくモーリッツを葬るというイニシエーションだったということと結論づけたゆえの表現である。

 

 「生」の戯曲としての春のめざめ

生は「性」自体を内包している。  おとなになること。それは、子供にとっては『抑圧されるべき正しい権利義務』であり大人にとっては『正しい機能ゆえに抑圧すべき』ものだ。 おとなと子供の相容れなさの本質はここにあるし、誰もその中道を求めていない。 劇的におとなになったと考えるひと、ゆるやかに上りつめ、「ああここが丘の上が」とこれまでの道程を臨んでやっと理解するひと、ひとそれぞれではありますが。

 

メルヒオールはがむしゃらに欲求を振り回した。そして過ちを犯し、友を亡くし、愛してはいなかった少女の存在も同じくこの世から消えたことを知る。

 

モーリッツはがむしゃらに欲求を振り回した。いとも容易く宵闇で銃声を轟かせた。彼なりの葛藤ゆえだとしても、それはいとも容易く、子供らしく安直に"死"の誘いの受けたかようにも思えた。そしてその後彼は、腐り落ちる身体と色褪せぬ後悔とを抱え、友を待ち、決別を誓う。

 

ヴェントラは欲求とはなにかを知らなかった。知らないままぶたれ、犯され、死んだ。しかし彼女は知らないままでいることを望んでいたのではなく、ただしく、こどもとして知るという権利を望んだ。

 

メルヒオールがモーリッツの手を取らなかったのではない。 モーリッツこそが、メルヒオールからの決別を誓い、それを受け入れた。そう感じた。  最後の独白、あの、モーリッツが自分の腐敗する体を抱きしめたあの夜には星がきらめいていてほしいと、なぜだかそう思った。

 

ナイトメア・ビフォア・クリスマスのテイストの挿絵が欲しい(個人的意見)

ナイトメア・ビフォア・アドレセンスって感じでした。

 

 そして場面転換時、SEとして、ずっと風の音が聞こえていたように思う。  あの風は、時にはメルヒオールを追いかける"不穏"な追い風で、時には彼をモラルなき森からの解放へと導く追い風だった。白濁と、モラルと義務、そして風の音。春のめざめは、紛れもなく、「生」のための戯曲である。

 

おわりに/わたしと春めざくん(雑感)

 

イルゼ、超好き!!!!! イルゼ〜〜〜〜〜〜!!!俺だ〜〜〜〜〜!!!とゆ〜感じです(また思い出したら追記します)。

あと、アクリルの後ろで繰り広げられるのは"子供"そして"生徒たち"が本当だったら触れることのない"死"や"性"だったんだ〜と思いますね。男女の営みや、モーリッツ、ヴェントラの死の演出も板一枚通すことですこし距離があることが文体だけでは表現し得ない遠近感を出していた。もちろん少年たちの自慰行為がアクリルのこちら側で行われていたのは、彼ら自身が触れている"性そのもの"だったからだ!

あとは"大人たち"、良い!感情が、良い(また思い出したら以下略)

そしてラストチャプターに関しては、やはり紳士がめっちゃ好きです。身毒丸でも、ローゼンメイデンでも「お会いしたか?」と思ってしまうような、お話の風呂敷をたたんでくれる案内人(言い方)。原作読んだときはその立ち位置にこの紳士がいるんだ!みたいな気持ちだったんですけど。観劇して考えが変化しました。彼は良い意味で、メルヒオールとモーリッツの"ただの見届け人"でした。身毒丸でも、ローゼンメイデンでも、あのような「紳士」はそりゃどちらかと言えば観測者側だろう?いや〜わかる。わかるんだけど!「春めざくん」が「無機と魂」の戯曲(ローゼンメイデン/2秒で考えた)でも、「円環と呪い」の戯曲(身毒丸/10秒かかった)でもない理由がここにあると思うのです。あの紳士の眼差しには、メルヒオール、"おとなになる子供"への慈愛があった。好奇や客観を捨てた眼差し。そこが「春めざくん」が「生」の戯曲たる所以なんだ。「あの紳士はメルヒオールのなんやねんな?  」と思った時に、上述したおとなと子供の相容れない隙間を繋ぐ幻想としての紳士なのかな、とちょっと考えました。わたしの個人的意見です。みんなの話も聞きたいな。春めざく〜〜〜ん!

 

 

 

春めざくんはツンとしたシニカルなやつです。 めちゃめちゃツンとしてる。  1人で本を読み、小鳥と戯れ、口笛を吹くような少年です。どことなくメルヒオールに似ている。しかし、彼はメルヒオールではない! わたしの中の春めざくんは、メルヒオールのように欲望を振りかざすのではなく、その"欲望"を笑いながらそっとつまんで、手のひらの上で遊ばせるような、余裕綽々の男の子です。春めざくんは「欲望」が何かを知っている。それが「無機」ではない、血の通ったものであることも。メルヒオールのように、文字という無機から「欲望」に触れたわけではないようです。しかし春めざくんとメルヒオール。この2人がいるからこそこの戯曲は成り立っている。子供は「おとなになりたい」と声高にのたまう権利と、「おとなになるべき」義務とが、自分たちにはあると考えている。だからこそ、おとなに反発し、抑圧を嫌う。けれど、おとなは知っている。それが、義務でも権利でもなく、おとなになるという、「正しい機能」でしかないということを。そしてそこから淘汰されうる存在が、この世には存在していることを。モラルを知らぬままに、星空の下、遺していった友人のことを思う軀が、そこには確かにある。

そんなおとなと子供の仲違いが、矛盾が、相反が!

内包されたこの戯曲が、これからもこうやっておとなになる子供たちの糧になりますように。

 

しそんのじゅんじゅん・いとちゃん・栗原類くんに関してはまた後日追記します!今日はここまで!ペーイ!まだまだ子供でいたい👶

わがままなラニーナでした🦄

 

 

*1:悪童日記 | TORIKO A PRODUCE

アウトプットとインプットが追いついていない。わ、わかる〜〜〜!