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ごめんねジュビリー

鉄は熱いうちに打て

「ASIAN KUNG-FU GENERATION2016-2017」と20th Anniversaryとわたし

アジカン 雑感

 

原題:「循環する嘆きと回遊する僕ら」

2017年1月10日、日本武道館で行われたアジカン20thアニバーサリーライブに行って来ました。ラニーナです。いつものテンションではなくライブ雑感を書こうと手探りしていましたが、やはりわたし個人と、アジカン。その姿勢を崩して書くことが困難を極めてしまったので自分に正直に生きようと思います。以下、『 “ASIAN KUNG-FU GENERATION2016-2017 20th Anniversary Live” からまとめたわたしの思うアジカンとわたし』です。ややこしい上に少しポエミーになってしまったので恥ずかしいのですが、思ってることは口に出さないと伝わらないんだよ!ドンウォーリ!ビーハッピー!と脳内の松岡修造氏がお尻を叩いてくれたので進めることができました。いつもありがとうございます。恥ずかしくなってきた人は気軽にゴーブラウザバックしてください。もうゴーバックする人いそう。ごめんやで。 

 

アジカンとわたし

アジカンの音楽はいつでも、嘆きとしてそこにある。

悔しかったことについて

今、「わたしが初めてアジカンを聴いたのは〜」ってくだりで始めようと思ったけど、やめた。ちょっと違うなって思ったから。わたしはクロニクル的に、つまり時間の経過とともにアジカンを考えているわけではなく、すでに「普遍」的にわたしの中にアジカンは取り込まれているんだと考えている。中学生の時のわたしは、こうアジカンを捉えていて〜、で、高校生の時はこうで〜、そして今、大学生になって〜とかそういう話じゃない。ないのだ。だからこそ、「いつも考えていること」、「わたしの中に取り込まれているアジカン」について今、書く。

2016年1月、6日。おっきな新宿の看板で、アニメタイアップとして「Re:Re:」が「再生」されると知ってわたしはその場で泣いた。「やられた」、と思った。どうしてもなぜか、置いていかれた気がした。そのあと聴いたリ・レコーディングされたアールイー・アールイーはフェスのイントロを踏襲していて、「演奏している」アジカンを思い起こすものだったのでそれも泣いた。良かったからだ。良い、とは思った。ただ、やっぱり取り残された。新宿アルタ前の広場の看板に書かれている、「オープニング曲」の文字を見て一番に思ったのは、「わたしがやりたかった!」だった。いつもわたしの中で再生されているアジカンを「再生」するのは「わたし」自身でなくてはならなくて、それは音楽を聴いている人みんな個人でそれぞれに思って勝手にやっている、なんの変哲もない普通のことだとは思うし理解しているのだけど。なんとなく伝わるかな。わたしがやっているのはいつも「自分自身の中での再生」だった。しかし脳内はずっとその文字を見てから、別にそれはあなた(僕だけがいない街)に頼んでないです、寂しい、辛い、悔しい、いやでもみんなが抱える感情だ、そんなのわかってる!(ぐるぐる)のスパイラルを作っていた。わたし(アジカンを聴いているワンオブアス)を構成する一要素を取らないで欲しい、いやでもそれよりも、あの、シングルカットされていないアールイー・アールイーを持ってきた「僕だけがいない街」のセンス、そうだ、それが悔しい、「わたしがやりたかった!」!

つまり、有象無象でいることを許さない自分が、わたしが自分自身という枠を超えてアールイー・アールイーの再生をやりたかったな、と悔しがっていました。ここで一旦供養したいと思います。テキトーにスルーしといてください。

 

ソルファについて

それから時間が経って、「ソルファ」が出た。お風呂で誰にも邪魔されないように聴いた。大学の仕事が溜まっていて正直時間がなかったけど、これだけはと思った。

セルフカバーアルバム「ソルファ」は全体的にグリッターがちりばめられている感じがした(全体、総括的イメージ・完全私見)。「完全私見」だし、元々のジャケットリスペクトの新しいジャケットの銀色のグリッターがそのまま、視覚化としてのイメージにつながった。曲たちは、総じて後藤さんの声が遠くなって(録音環境、四人が求めた質なんだろうな)、少し隔たりを感じたまま12曲を聴いた。アジカンの音楽がいつも、生きていて死んでいるな、と思えていた理由は、後藤さんのシャウト(あれなんていうのかわかんないんだけど)が近くて、生きていて、だけど切り取られた音源としての曲は死んでいるからだった。ちょっと何を言っているのかわからないかもしれないけれど、そういうわけでわたしはアジカンの曲たちに、極めて前向きな意味でいつも死の認定をしていた。音源だからね。「この録音環境で録りたい!」とアジカンの皆さんが思って作り上げた新しいソルファは少し、有機から無機に移行していたのだ。わたしの中で2004年のソルファは白磁の白だ。2016年はね、シルバー。

 

曲たちについて

突然ですがわたしは振動覚が好きです。イントロから、いつも、死にたくなって生きたくなるから!

特別な才能を

何ひとつ持たずとも

君の閉じる闇を打ち抜く

できるなら心、それひとつ

この胸の奥を 今 此処で掻き鳴らす

 

どうしても走り出さなきゃ、そうやって、何かを変えなくては。そんな曲ばっかだと思うんだ。後藤さんの紡ぐ言葉は、闇とか夜とか、君とか僕とか、未来とか、ずっとそんなことを歌っていて、それだけでいいんだと思う。アジカンの音楽は嘆きが循環する。アールイー・アールイーはそれを体現した曲の代表例だ。バタフライもわたしの中では同じカテゴリに入るけど、とりわけ。君繋ファイブエムが、崩壊アンプリファーが、嘆いていた過去や今をそっと拾うような、拾ってその表面を確かに撫ぜるけど、そこに温度はないような、そういうアールイー・アールイー。

 

わたしの中でエルレは、今この瞬間のきらめきをギュッと閉じ込めてしまう音楽で、アジカンは過去と未来を繋ぐように情景を切り取っている音楽だ。特に大好きな、大好きだった、二つのバンドは、なんだかわたしが思っているような帰結に今落ち着いているのかなと思う。一つはきらめきを閉じ込めたままいなくなっちゃって、もう一つはまだまだずっと、未来へ、繋がっている。

わたしの言うアジカンがかたちづくる過去は、アジカンを聴く人それぞれの過去である。もちろんだよ。アジカンを聴く人それぞれの、夕暮れのこと。高架下のこと。ナイトダイバーがゆくような、揺らいでいる頼りない君が、僕らを救う羽になるようなそんな夜のこと。アジカンが歌う、一つ一つの言葉はいつも、未来だけじゃなくて、過去にそっと触れていく。

過去を嘆くことは、未来だ。そして未来が確かにそこに広がっていても、アジカンは、後ろを振り向いて少し目を閉じることをためらわないし、恐れない。

 

アンテナ拾った言葉から

繋いでよ途切れる声

アンテナ伸ばして放つから

繋いでよ僕のすべて

 

チェックオッケー? 

 

君はわかるさ 僕だってわかるさ、って、オーイエーを繰り返す後藤さんのアウトロでいつも、やっぱり、走り出そうと思える電波塔。トラベログ、遥か彼方、そして旅立つ君へ、と、未来の破片。

 

 youtu.be

繋いでいたいよ

君の声が 

聞こえた日から萌える色

伸ばした手から漏れた粒が

未来を思って此処に光る

 

イケイケゴーゴー未来に繋げ曲を中心に紹介しましたが、情景を切り取っていく曲たちも大好きです。それでは後半戦、セットリストとライブで思ったこと。

 「ASIAN KUNG-FU GENERATION2016-2017」20th Anniversary Liveとわたし

2017・1・10 セットリスト

1.遥か彼方
2.センスレス
3.アンダースタンド
4.アフターダーク
5.夜のコール
6.粉雪
7.マーチングバンド
8.踵で愛を打ち鳴らせ
9.今を生きて
10.君という花
11.E
12.スタンダード
13.ブラッドサーキュレーター
14.月光
15.振動覚
16.リライト
17.ループ&ループ
18.君の街まで
19.マイワールド
20.夜の向こう
21.ラストシーン
22.サイレン
23.Re:Re:
24.24時
25.真夜中と真昼の夢
26.海岸通り

Encore

27.転がる岩、君に朝が降る
28.Wonder Future
29.タイムトラベラー
30.嘘とワンダーランド
31.さよならロストジェネレイション
32.新世紀のラブソング

ライブでアジカンに触れて、生きていると思ったこと

先述した通り、わたしは少し枯れている後藤さんのシャウト(もうわかんないからこの後は『嘆き』で通します。それが一番近い)が好きだった。あの悲痛さを少し含んだ嘆き、あれを後藤さんと共有していると錯覚することで息をしていると感じるのが日々の常だったから。わたしがアジカンを生で見たのはCDJのトリのエンディングアクトのみで、しかも初めてのアジカンで死ぬ思いだったので見事にリライト〜アールイーのところしか記憶にないし、唯一覚えているのがわたしと一緒に来ていたDくん(キューミリコピバンでドラムを叩いていた)の斜め前方にいる女の人二人が「どうして大学にはゴッチみたいなメガネをかけている人がたくさんいるのか」「というか、メガネをかけててもさもさの髪の人は大体ゴッチ」問題について審議を行っていたことだった。

わたしがそのウン何年前の記憶を掘り起こし、ソルファでシャウトに隔たりを感じた上で懸念していたことは、音楽はわたしたちに届けられた時点で半分以上死んでいるという持論に基づいた懸念だった。届けられた時に既に半分からそれ以上死んでいる音楽をぶっ生き返すというか一緒に生き返らせるのがライブだというのに、そこでなおわたしはまた、駄々をこねるように一人、取り残された気分になっちゃわないかという、極めてよくある懸念だった。でも何事もそうであるように、極めてよくあるものこそ、自分自身、たった一人のものなのだった。でも極めてよくあるように、それはライブで吹っ飛んだ。最高である。遥か彼方、から走り出してそのままゆっくり、月光で立ち止まった。そこからの2幕。振動覚のイントロが心に触れて、ただただ、「ここにきてよかったなあ」と思った。2幕に入る前のブラッドサーキュレーターで既に、情熱燃やしたあの頃を心血注いで取り戻す、というフレーズを繰り返す後藤さんを観て、この人歌うことやめないんだなあと思えていたことも、だって、“そう”でしょうという感じでした。喜多さんは武道館でメインをつとめることを嬉しいと言ってくれたのでわたしも嬉しくなったしみんな沸いてました。山田さんはよくメンバーを見ていたし(小並感)、伊地知さん、2年後ひとり20thアニバーサリーツアーするってよ。

アンコールの、ワンダーフューチャーのノンプラグドバージョンで、「アジカンは今を生きていく」「此処で鳴っていく」と感じられた。本当は、「Wonder Future」というアルバム、あんまり好きじゃなかった。これもめくるめく無機の感じがしたから。「未来志向すぎる」という感想をリリース時わめいていたことを自分でも覚えている。でも、後藤さん一人でのワンダーフューチャーを聴いて、矛盾しているけど、アジカンという概念は有機と無機の狭間にちゃんといると納得した。あの時の後藤さんはアジカンじゃないかもしれない。四人揃わなきゃ、アンプに楽器を繋いでいなきゃ、アジカンという概念ではないかもしれない。そういった意味の矛盾をお腹の中に抱えながら聴いたワンダーフューチャー。後藤さんはアジカンという概念としてではなく、その概念を背負うかのように歌っていた。だからわたしはやっぱり、後藤さん一人ではアジカンになり得ないことがたまらなく嬉しかったんだ。

新世紀のラブソングでたまに、雨を想うことがある。この日はそうだった。新しい恵みのことに想いを馳せる。そういう日だった。

アジカンは生きていた。アジカンの音楽は生きていて、後藤さんは嘆いていたし、わたしたちに「走れ」と伝えてくれた。闇を打ち抜く、光とか、そういった存在を想うだけで、「強くなれる」と、心が震えること。それを覚えた心のまま、いつまでも、わたしはわたしのまま走り抜けたいなと思った。

 

おわりに

すきなもののことをまとめるのってほんとうにむずかしいんだ。それでもやってみると決めたのはわたしです。これからまたゆっくり整理して行こうと思います。とりあえず、「鉄は熱いうちに打て」!これ、モットー!